弁天橋を渡り終えると青銅の鳥居があります。弁天信仰の象徴として知られ、この青銅の鳥居の場所は江戸時代は 波打ち際だったそうです。江戸時代に多くの寄進者の協力で再建された青銅の鳥居は、柱にその名を刻んで200 年近い潮風に耐え、今も立派な姿で江の島の入り口に立っています。
弁天橋を渡り終えると青銅の鳥居があります。弁天信仰の象徴として知られ、この青銅の鳥居の場所は江戸時代は 波打ち際だったそうです。江戸時代に多くの寄進者の協力で再建された青銅の鳥居は、柱にその名を刻んで200 年近い潮風に耐え、今も立派な姿で江の島の入り口に立っています。
江島神社の鳥居から頂上部にかけて階段を上がっていきますと、辺津宮(へつみや)、中津宮(なかつみや)、奥 津宮(おくつみや)の三宮から成る江島神社です。この江島神社の鳥居を左に行きますとは児玉神社へ。右に行き ますと岩屋への近道です。
赤い鳥居の先には白塗りの瑞心門があり、その両側には大きな唐獅子の絵が描かれています。中央アジアからも
たらされたライオンが古代中国で幻想塔物として描かれ、わが国には密教曼荼羅の中の唐獅子が9 世紀に渡来し、
定着していきました。 以後、仏法のみならず邪悪なものを退け、国家鎮護を祈念する形代として飾られるように
なりました。 この瑞心門唐獅子は、御祭神の守護と合わせて参拝の皆さまに厄災なきことを祈願して飾りました。
江の島弁戝天は日本三大弁戝天(厳島、竹生島)の一つで、近年まで岩屋洞窟に祀られ、 その御霊水で金銭を洗うと、
金運向上・財宝福徳の御利益があると伝えられてきました。 現在は、ここの白龍池にお移し致しました。銭洗いは本来
我身我心の不浄の念を洗い清めるもので、それにより神の御守護をいただき、福徳がもたらされると言われております。
江島神社中津宮に「弁戝天黄金浄水」があります。弁戝天の神使” 白龍王” は高さ3mあり、水源には純金の小判
が秘められているとのことです、昔から黄金の水は「健康によい」「運が開ける」「声がよくなる」「美しくなる」と称せ
られています。江島弁戝天は、海の神・水の神・幸福、財産を招き、芸道上達の功徳を持つ神と仰がれました。また「戝」
に関係した” 銭洗い弁天” 信仰もあり、江島神社では参拝前に「白龍王黄金浄水」で手とお金を清めるよう勧めています。
江島弁戝天は日本三大弁戝天(厳島、竹生島)の一つで、近年まで岩屋洞窟に祀られ、 その御霊水で金銭を洗うと、金運
向上・財宝福徳の御利益があると伝えられてきました。 現在は、ここの白龍池にお移し致しました。銭洗いは本来我身我
心の不浄の念を洗い清めるもので、それにより神の御守護をいただき、福徳がもたらされると言われております。
健早須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)その昔、対岸の腰越に祭られていたが、大波に流され、江の島お岩屋前の
海中に沈んでおられた御神体を、 島の漁師がお拾い申上げてお祀りした。 祭礼は7月14日、全国でも珍しいお囃子が
島内をめり、神輿(みこし)は弁天橋際から裸形の若者たちにかつがれ、 水しぶきをあげて海に入り、勇壮な禊が行われ、
その後、ゆかりの腰越まで御囃子(おはやし)の先導で渡御され、 湘南の夏を告げる祭として賑わいます。
いま、若者に大人気の〈恋むすび・縁むすび〉の絵馬。
仁寿3年(853)に慈覚大師がこの中津宮を創建したと伝え、元禄2年(1689)の再建を経て現在の社殿は平成8
年(1996)に修造されたものです。朱塗りの華麗な社殿は、元禄期に再建され、現代に甦えりました。その元禄時
代には経済の発達に合わせて歌舞伎が隆盛していきました。紆余曲折もありますが、庶民の娯楽として脚光を浴びる
ようになり、江の島を舞台としたものも多く演じられるようになりました。
そのお蔭で江の島詣は益々盛んになり、歌舞伎役者も技芸の上達を願い、参詣するようになっていきました。参道に
は石燈籠が並びますが、市村座・中村座の両雄が安永6 年(1777)と天明2 年(1782)に各々献燈したものです。
美しい弁戝天さまにあやかりたい、綺麗になりたいは、どの時代も女性の願です。
鎌倉幕府を開いた頼朝は、政治の方策としての信仰を大きく取り上げ、 各地に寺社伽藍を創建したが、その一つとし
て江の島神社にも数度にわたって参詣、参籠し、 その都度、信仰上の対象を寄進しています。 文覚上人に命じて弁財
天を勤請し鳥居を奉納し、楽器を納めたなど文献に残されたものでありますが、 そのうち鳥居はこの奥津宮にある石鳥
居がそれであります。 養和2 年(1182)4 月に建立されたもので、文政年間に破損を修復した記録も刻まれた貴重
な史跡であります。(藤沢市観光課より)
欽明天皇十三年、「欽明天皇の御宇、神宣により詔して 宮を島南の竜穴に建てられ一歳二度の祭祀この時に始まる」
とあり、 これは、欽明天皇の勅命で島の洞窟に神様を祀ったのが、江島神社の始まりであることが記されてます。
江島神社は、当時は、 御窟(おんいわや)を本宮といい、奥津宮(おくつみや)を本宮御旅所と呼んでいました。
奥津宮のご祭神、多紀理比賣命(タギリヒメミコト) は海人集団の祭る神、宗像三女神の一番上の姉神で、安らか
に海を守る神様といわれています。
不思議な作品が神門の天井に描かれています。江戸時代の画家、酒井抱一の力作。現在のものは片岡華陽が描いた
復元画。
鎌倉幕府を開いた頼朝は、政治の方策としての信仰を大
きく取り上げ、 各地に寺社伽藍を創建したが、その一つ
として江の島神社にも数度にわたって参詣、参籠し、 そ
の都度、信仰上の対象を寄進しています。
文覚上人に命じて弁財天を勤請し鳥居を奉納し、楽器を
納めたなど文献に残されたものでありますが、 そのうち鳥
居はこの奥津宮にある石鳥居がそれであります。 養和2
年(1182)4月に建立されたもので、文政年間に破損
を修復した記録も刻まれた貴重な史跡であります。
《わだつみ》という言葉は、万葉集に頻繁に使われており、語源は《海(わた)つ霊(み)》で、海の神をさす海神。
今では海そのものを意味するようになっています。
江の島の龍宮(わだつみのみや)は、平成6年9月吉日に岩屋洞窟の真上に鎮座となった五頭龍は江の島の正面
にある龍口寺に祀られたが龍宮(わだつみのみや)にも御祭神《龍宮大神》として祀られています。
謡曲『江ノ島』には天女が龍神と姿を現じて、七難即滅七福生悪事災難を払いて諸願成就を宣う声も新たに聞こえた、
とあります。
龍宮の入口の上部には、右前足に龍珠を握り、口にも龍珠をくわえている龍大神がおかれています。
江の島の「岩屋」は波によって浸食されてできた洞窟。第一岩屋(奥行152m)と第二岩屋(奥行56m)の二つ
の洞窟から成るもので、江の島弁財天信仰の発祥地と考えられている。その昔、弘法大師や日蓮が修行したといわれ、
宗教的な修行の場、あるいは聖地として崇められる。1182年には、源頼朝が奥州藤原秀衡征伐を祈願。
崖のそばの橋をすすむと、「江の島岩屋」入口(入洞料、大人500 円)。暗いトンネルの壁に「江の島縁起」や「北
条時政と竜神伝説」、広重の「富士三十六景相模江之島入口」、「相州(そうしゅう)江之嶋岩屋之図」などの展示
物が掲載されている。第一岩屋には古来洞内にあった各種の石仏・石神・石祠などが陳列されています。第二岩
屋の一番奥には竜神の像。