江の島の原点を散歩する。
連綿と続く景勝地、江の島。古くは縄文時代より人の住むこの地は様々な伝説や歴史・文化に、いろどられています。
江の島の原点を散歩する。
連綿と続く景勝地、江の島。古くは縄文時代より人の住むこの地は様々な伝説や歴史・文化に、いろどられています。
江の島が干潮時に歩いて渡れる様になったのは1216 年だと言われています。
その後長く干潮時には歩いて渡り、満潮時には渡し舟か人足が背負って渡っていました。ゆすり、たかりが多発
していた江戸時代以降、海に入らずに渡れる橋は島民にとっても参詣者にとっても長年の夢でした。
弁天橋を渡り終えると青銅の鳥居があります。弁天信仰の象徴として知られ、この青銅の鳥居の場所は江戸時代は
波打ち際だったそうです。
江戸時代に多くの寄進者の協力で再建された青銅の鳥居は、柱にその名を刻んで200年近い潮風に耐え、今も
立派な姿で江の島の入り口に立っています。
青銅の鳥居を抜けると参道がまっすぐ伸び、その両脇には仲見世がズラリと立ち並びます。弁財天仲見世通りには、食事処や、江の島の名産品、オリジナル小物屋さんが軒を連ね賑やかです。江の島名物の女夫饅頭、貝最中、新名物ですっかりお馴染みのタコせんべいなどを食べながら、ゆっくりと歩くのもよし。
江島神社の赤の鳥居から頂上部にかけて、辺津宮(へつみや)、中津宮(なかつみや)、奥津宮(おくつみや)の
三宮から成る江島神社。01[岩屋コース]では、この江島神社の赤の鳥居を右に曲がって海と丹沢の山を観ながら
奥津宮へとぶらりさんぽして行きます。
至る所に、亀のオブジェがあって微笑ましい奥津宮。
鎌倉幕府を開いた頼朝は、政治の方策としての信仰を大きく取り上げ、 各地に寺社伽藍を創建したが、その一つと
して江の島神社にも数度にわたって参詣、参籠し、 その都度、信仰上の対象を寄進しています。 文覚上人に命じて弁
財天を勤請し鳥居を奉納し、楽器を納めたなど文献に残されたものでありますが、 そのうち鳥居はこの奥津宮にあ
る石鳥居がそれであります。 養和2年(1182)4月に建立されたもので、文政年間に破損を修復した記録も刻まれ
た貴重な史跡であります。(藤沢市観光課より)
欽明天皇十三年、「欽明天皇の御宇、神宣により詔して 宮を島南の竜穴に建てられ一歳二度の祭祀この時に始まる」
とあり、 これは、欽明天皇の勅命で島の洞窟に神様を祀ったのが、江島神社の始まりであることが記されてます。
江島神社は、当時は、 御窟(おんいわや)を本宮といい、奥津宮(おくつみや)を本宮御旅所と呼んでいました。
奥津宮のご祭神、多紀理比賣命(タギリヒメミコト) は海人集団の祭る神、宗像三女神の一番上の姉神で、安らか
に海を守る神様といわれています。
どこから見てもこちらを睨んでいるように見える不思議な作品が神門の天井に描かれています。江戸時代の画家、酒
井抱一の力作。現在のものは片岡華陽が描いた復元画。
《わだつみ》という言葉は、万葉集に頻繁に使われており、語源は《海(わた)つ霊(み)》で、海の神をさす海神。
今では海そのものを意味するようになっています。
江の島の龍宮(わだつみのみや)は、平成6年9月吉日に岩屋洞窟の真上に鎮座となった五頭龍は江の島の正面
にある龍口寺に祀られたが龍宮(わだつみのみや)にも御祭神《龍宮大神》として祀られています。
謡曲『江ノ島』には天女が龍神と姿を現じて、七難即滅七福生悪事災難を払いて諸願成就を宣う声も新たに聞こえた、
とあります。
龍宮の入口の上部には、右前足に龍珠を握り、口にも龍珠をくわえている龍大神がおかれています。
江の島の「岩屋」は波によって浸食されてできた洞窟。第一岩屋(奥行152m)と第二岩屋(奥行56m)の二つ
の洞窟から成るもので、江の島弁財天信仰の発祥地と考えられている。その昔、弘法大師や日蓮が修行したといわれ、
宗教的な修行の場、あるいは聖地として崇められる。1182年には、源頼朝が奥州藤原秀衡征伐を祈願。
崖のそばの橋をすすむと、「江の島岩屋」入口(入洞料、大人500 円)。暗いトンネルの壁に「江の島縁起」や「北
条時政と竜神伝説」、広重の「富士三十六景相模江之島入口」、「相州(そうしゅう)江之嶋岩屋之図」などの展示
物が掲載されている。第一岩屋には古来洞内にあった各種の石仏・石神・石祠などが陳列されています。第二岩
屋の一番奥には竜神の像。