家康が慶長5(1600)年に参詣して以来、代々将軍の祈祷所となったことや、大奥・諸大名の信仰が篤かったことから、江
戸庶民も江の島に詣で始めました。これは「江の島詣で」と言われ、東海道を使って江戸からも大変多くの人が集まり江の島
は賑わいました。そもそも古代より霊場と信仰の聖地だった江の島。源頼朝が1182 年(寿永元年)に奥州平泉の藤原氏征
伐の戦勝祈願のため江の島弁才天を勘進して以来、福神・音楽の神として弁財天信仰が盛んになり、干潮時を利用して多くの
人が江の島に渡っています。特に5代将軍綱吉は年来の病気を治した杉山和一検校に勧められたこともあって、病気平癒の信
仰として江戸市民に江の島弁財天の信仰を促しました。
江戸周辺や関東地方から見て一生に一度の「伊勢参宮」に比べると、相模国への旅は、はるかに近く、しかも関所を通らない、
今で言うフリーパス。「大山参り」の大山へは江の島や鎌倉、富士山などともセットで旅することも多かったのです。特に江の
島は富士山より近いこともあってその手軽さで人々が大挙して押しかけました。江の島は富士山に出掛ける代わりだったのです。
藤沢には徳川家康が関ヶ原の合戦や大坂の陣などの往復の際や、関東巡視などに休泊施設として利用した「藤沢御殿」があり
ました。江の島については鎌倉に近いこともあり、古来より時の権力者から庇護されてきた場所でした。それは当時「境川」が物販・
物流の一大拠点になってい、北条氏に取って代わった徳川家はまずこの地を統治する必要がありました。
現在の町田周辺や神奈川の北部から小田原などに兵糧などの物資を送る際に、「境川」を使って船を用いて物資を運搬したので、
荷物は河口の江の島周辺に集められてから西の小田原へ運びました。やがて支配者が徳川氏になると、1600 年(慶長5年)
には徳川家康が「江の島」に参拝します。「藤沢御殿」の設置年代は慶長初年と推定され、慶長5年(1600)から寛永11年(1
634)までに家康は合計28回宿泊しています。また「藤沢宿」は、鎌倉時代から時宗総本山・遊行寺の門前町として栄え
たところです。時宗が徳川家康の保護を受け、遊行寺が再建されたので、ますます多くの信者が訪れるようになったのです。
藤沢宿は、江戸日本橋を起点とした東海道五十三次の第6の宿場で、大鋸・大久保・坂戸の3町で構成されていました。寛 永12年(1635 ) に参勤交代が制度化されると、大名の宿泊施設として本陣などが整えられます。藤沢宿は、江の島や大山 への分岐点として賑わいました。加えて大山信仰が定着化し、関東各地から大山への参詣で者の通る道が「大山道」となって、 関東地方の四方八方の道はすべて大山に通ずると言っても過言でない状況となると、大山からの帰りは江の島、鎌倉などの観 光も行われ、大山参詣では江戸庶民の一大レジャーと化して行きました。
【豆知識】
●現在の神奈川県藤沢市から大山へ向かう大山道[田村通り大山道]
大山道の中で最も主要とされ、起点の藤沢四ツ谷には「一の鳥居」が置かれた。「御花講大山道」や「御花講道」とも呼ばれ、東海
道と藤沢宿で接続し、藤沢宿を挟み対面の江の島道にも通じるため、最もにぎわいをみせた経路である。神奈川県道44号伊
勢原藤沢線や神奈川県道611号大山板戸線が近似したルートを辿っている。
経路:藤沢宿四ツ谷(神奈川県藤沢市) - 一ノ宮(高座郡寒川町) - 田村の渡し(相模川) - 横内(平塚市) - 下谷(以降、
伊勢原市) - 伊勢原 - 〆引 - 石倉 - 子易 - 大山
さて、家康が江戸幕府を開いてから大変な賑わいを見せた藤沢から江の島。一方、当の家康は鷹狩に熱中。よほど好きだった
らしく、鷹がからむと見境がつかなくなり狩のあとで上機嫌のあまりお供の者どもに金銀を大盤振る舞いをしてかえって気味悪
がられたこともあったそうです。
そんな鷹狩には民情視察を兼ねていたことも確かなようで、その他に体を鍛えるという事も含めて、趣味と実益を兼ねたもので
あったようです。鷹狩りは、まずもって将軍の権威を示すことが重要な目的であり、一方で家臣の能力を把握したり、軍事訓練
なども兼ねていたのです。だからこそ、鷹狩りには獲物を捕獲できるシステムや環境の整備がどうしても必要でした。これを実現
するために、組織や地域ぐるみのネットワークづくりを進めていきました。
なにせ鷹場というのは将軍の鷹狩りのためという目的で、実にさまざまな環境への配慮がなされていました。その一貫として鷹
狩りの獲物となる鳥の飼育が各地で盛んに行われました。目黒ではウズラ、品川や葛飾では鶴の飼育、白鳥等々飼育場をつくっ
て餌付けしていました。田んぼを綺麗に保ち、川の水質保全を保つ。「自然環境への循環システム」。これこそが江戸幕府を、
世界に類を見ない優れた都市国家と呼ぶに相応しい、先進性を持った国と思わしめる要因でした。
【豆知識】
寛永12年(1635)が制度化されると、大名の宿泊施設として本陣などが整えられます。「藤沢宿」は、江の島や大山への分岐
点として賑わいました。天保14年には人数4089、家数919、うち本陣・脇本陣が坂戸町に1軒ずつ、旅籠屋45と記録
されています。
江戸時代の旅人の1日の旅程は約40㎞といわれています。『東海道中膝栗毛』の弥次さん、喜多さんも、最初の宿泊地は、
日本橋から約40㎞の戸塚宿です。2泊目は、戸塚宿から約40㎞の小田原宿に到着しています。そんな猛スピードで歩いてい
た江戸時代、参勤交代の大名たちは、日程短縮、旅費節減のために、夜明け前に旅立ちました。
安政6年(1859)、鳥取藩の例では、鳥取から江戸までの約724㎞を21泊22日で完歩しています。1日平均32㎞以上の
強行軍でした。大名行列が威儀を示すのも城下町や宿内だけで、そこを出ると行列を解き、目的地に急いだということです。因
みに、この時の経費は1957両で、1両16万円とすると、3.1 億円にもなりました。