もともと身体が弱かった光圀公は、儒学の教えを遺憾なく発揮し、周囲の人にヘルシーな料理を勧めたりする人望厚い人気者。 延宝2年(1674年)甲寅の年には、父・頼房の実母(お万の方)の墓参りと、頼房の准母(お勝の方)の三十三回忌供養のため、 水戸から房総を経て鎌倉に出向く事になり、その旅の途中、初代将軍家康公の信仰厚い江の島に立ち寄りました。宿泊はもち ろんかの岩本院。この岩本院の先祖は源氏一族の「宇多源氏」の流れをくむ、近江源氏として有名な「佐々木氏」です。 岩本院は葉山に御用邸が出来るまでは宮内庁ご用達でもあり、由緒のある旅館。この紀行文が「甲寅紀行」として残されています。
皆様よくご存知の水戸黄門様こと徳川光圀公。水戸徳川家当主・徳川頼房の三男として生まれた光圀はいわゆる不良少年でし
た。それというのも母が正式な側室ではなかったため、正式な側室であったお勝(円理院、佐々木氏)の機嫌を損ね、光圀は
臣下の三木夫妻のもとで育てられたためでした。
しかし幼少時からの非凡をな才能をもった光圀は18歳の頃、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで深い感銘を受け、将来におけ
るライフビジョンを定めたのでした。
「天道是か非か」を問いかける『伯夷伝』は光圀を儒学の場に誘ったのでした。平和を重んじ、現実・実践へ目を向け、なお
かつ民主的・合理的な儒学。これを基礎に『大日本史』を編纂(へんさん)しました。『大日本史』は、日本の歴史書であり
水戸学の根幹をなすもので、水戸藩の事業として以降、明治時代まで続きました。近代の歴史学においては久米邦武が「劇本
の類」とセンセーショナルな評価を贈り、思想書物としては哲学者西田幾多郎が「明治大正の間、歴史の名に値するほどの著述」
は「水戸の大日本史があるだけである」として高く評価。来るべき幕末の思想に大きな影響を与えたのでした。
過去の事実を明らかにし、ことに国の歴史を作り、将来のあり方、理想を掲げ得る『大日本史』編纂は、やがて大きな公共事
業の色合いを増しました。業務に携わる者は浪人や庶民でも構わず有能なものを全国的に募集・抜擢採用、各自の能力を発
揮できるように任務を与えました。こうしたことから色々な学派との交流も盛んになり、水戸領内の各地に郷校が建設され学問
が普及し、後世農商の間から藩士に抜擢登用されて藩のエネルギーは高まっていきました。
文献に書かれてある江の島詣での様子を見ると、当時の江戸庶民が江の島詣でをどんなにか心待ちにしていたかが思い浮かべ られます。さて、そんな江の島詣でのコースは江戸から出発した場合、六郷-川崎にでて金沢八景-鎌倉-江の島に到着、 藤沢にでて帰路につく、という旅程でした。 江戸時代の人々は大抵このコースで江の島へ出掛けていたようです。いまで云うところの“ 伊勢神宮パックツアー” ような 「詣でツアー」なるものがあったのです。平和が続いて経済的な余裕がでてきた江戸庶民。それにともなって今のレジャーブームの ような旅行を兼ねた江の島詣でが流行したわけがわかります。普段働き詰めの人々は、お盆を利用し江の島まで出掛け、上手 にストレス発散をしていたようです。どちらかというと観光のためにというよりは信仰のためにといった慣習が主で藤沢・江の島 は精進落としの地でした。
【豆知識】
すごい悪者のようにいわれている雲助は各宿場で働く人足たちで、有名なのは箱根の雲助。越すに越されぬ箱根の山で何も知
らない旅人たちを怪しい場所へと連れ込み、追い剥ぎなどして相当荒稼ぎをしていたようです。でも本当はとても真面目でかな
りのテクニックを持った集団でした。なんと雲助になるには次の三つに合格しなければならなかったようです。その試験内容が
また難しい…。誰もがすぐに慣れるというものでもなかったようです。
■試験内容
一、 力持ち
二、 荷造り上手
三、 歌上手
この3 つに受からないと一流の雲助になれなかったようです。
こうした人足のほかに馬をひく「馬子」、籠をかつぐ「かごかき」たちが、旅行や温泉場遊びを助けていました。
■江の島での渡し人足の規定
江の島で働く人足は片瀬および江の島に住む者のみで岩本院の支配下におかれていました。
・洲鼻と江の島間は潮が引いた場合、徒歩で渡る
・潮が満ちた場合は渡船8 文
・肩車の場合、ひざ下16 文、腕下24 文
潮の引いてる時刻に渡れた参詣者はラッキーでしたね。この頃、藤沢よりの「洲鼻通りの門前町」も整備され、江の島の門前町
を結ぶ渡船場は大盛況でした。
※ひしお
「ひしお」とはご飯にかける「江戸むらさき」のようなもの。立場で食事をとる庶民はみなご飯に「ひしお」をかけていたようです。
今でもご飯にのせる「のりたま」とか「おかずラー油」などトッピング種がいっぱいありますね。江戸の頃からご飯になにかのっ
けて食べるのが好きだったんですね~。
※アワビの粕漬け
殻からはずしたアワビを酒蒸しした後、酒粕に漬けた逸品。酒粕の風味が素材の甘味をより引立てます。漬込むことで日持ちが
よくなるため土産物として大人気だったそうです。
※1 「立場」とは今で言う大学キャンパスのそばにある定食屋のようなお店。
※2 ご飯にかける「ひしお」は現代でいう丼飯に近いかも。昔は炊いたご飯を“ おひつ” に入れて、翌日お湯をかけお茶漬
けご飯にしたりしました。具となるお新香、佃煮などは保存の効くお茶漬けの主流でした。
中世、江の島には弁才天を本尊として「岩屋本宮」・「上之宮」(現中津宮)・「下之宮」(現辺津宮)の3宮があり、それぞれ
上之坊・中之坊(岩本坊)・下之坊の各別当寺が管理にあたっていました。宿坊とは主に仏教寺院などで僧侶や修験者や、お参りと観
光を兼ねて来た旅人が休憩したり食事をとる宿泊施設でした。本来は僧侶のみが泊まる施設であったのが、貴族や武士、更に
は一般の参詣で者も泊まるようになって、運営者も僧侶から寺院周辺の御師(おし/おんし)があたることとなりました。御師とは、
特定の寺社に所属して、その社寺へ参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする者のこと。江の島神社はこの3 つの坊でお
祈りや宿坊の提供などによって運営がなされていました。上之坊は品行の正しい、肉食・妻帯をしない僧が江の島明神に奉仕
していました。中之坊は皇族・将軍が宿泊されました。それ以外の庶民はだいたい「下之坊」に泊まっていました。
■江の島の老舗旅館
明治になり宗教と分離された宿坊は一般向けの宿泊施設となり、岩本楼、金亀楼、恵比寿屋、さぬき屋の老舗旅館が誕生し
ました。このうち、現在も旅館として営業を続けているのは岩本楼と恵比寿屋の2軒だけです。
■岩本楼
もと岩本院と呼ばれ江島神社の総別当。葉山に御用邸が出来るまでは宮内庁ご用達でもあり、由緒のある旅館。江の島を代表
する名所して知られています。
■恵比寿屋
創業350年以上の旅館です。明治維新の元勲伊藤博文・三条実美・桂小五郎、歌舞伎俳優、尾上菊五郎・吉右衛門・梅幸、歌人、
吉井勇、俳人青木月斗他多くの旅人が訪れました。
■金亀楼
江島神社の宿坊の一つとしての歴史をもつ旅館。1980年、景観面で世論の大反対を受ける中、全逓信労働組合により再建
されたものの1年後には閉鎖を余儀なくされました。跡地は広場として整備され、観光客の憩いの場となっています。