連綿と続いた伝統ある江戸歌舞伎の影に江の島あり。その江の島で平成11年(1999年) に“ 江の島歌舞伎” が開催されました。上演したのは「弁天娘女男白波」(べんてんむす め めおの しらなみ)。歌舞伎界の名門 “ 音羽屋”、五代目尾上菊之助が弁天小僧菊之助 を演じ(その3年前、歌舞伎座でこれを演じ、五代目を襲名、現在に至る)、七代目菊五 郎が共演という夢の様な舞台が繰り広げられました。弁天娘女男白波は歌舞伎ではよく知 られた有名な演目。五代目尾上菊五郎の当たり芸で大評判となった音羽屋は一番の名門 “ 成田屋” と黄金時代を築いていきます。弁天娘女男白波の名場面は何と言っても“ 浜松 屋”。ここでアノ名科白(めいせりふ)「知らざあ言って 聞かせやしょう」がでます。
河竹黙阿弥の傑作となったこの作品は13世市村羽左衛門(後の五代目尾上菊五郎)に
書きおろした新作。泥棒や小悪党の主人公〈白浪物( しらなみもの) と呼ばれる〉にし楽
しく痛快に描かれているの。登場する小悪党「弁天小僧菊之助」は江の島岩本院の稚児(ち
ご)あがり。お賽銭は盗む、岩本院の江の島参詣のお客さんの財布をスリをするはで、挙句、
女装して美人局(つつもたせ)までやるに及んでは笑ってしまうわ~。いったい岩本院はど
う思っているんでしょう。
■河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ 1816~1893)
幕末、華々しく燃える江戸歌舞伎に彗星の如く現れた最後の天才作家。生涯に活歴をふく
む時代物90編、散切物をふくむ世話物130編、浄瑠璃、所作事あわせて140編、合
計360編の驚異的な作品数を残した。
音羽屋の芸系を完成したのは五代目菊五郎。その音羽屋 五代目尾上菊五郎が文久3年、江の島詣でで弁財天にお参りに来ま
した。短気だが人をそらさぬ愛想のよい人柄で皆から愛されました。真面目で強持ての九代目團十郎とは対照的。ある時、弟
子のしくじりに「おめえなんぞ、辞めちめえ!」と怒鳴りつけた菊五郎。あまりの暴言に腹を立て、弟子が「音羽屋をぶっ殺し
てやる」と口走った途端、態度が一変。「何!ほんとうかい!?そいつあいけねえ。おい、二両渡すから、なんとか宥めてくんな」
と弟子に一円札二枚渡し、「いかにも音羽屋らしい」と笑い話になったりしました。それでいて如才ない菊五郎。その菊五郎にとっ
て文久2年(1862)は運命の年となりました。ある日歌舞伎界の天才作家、河竹新七は両国橋のたもとで女物の着物を着
た美青年を見かけました。その女装ぶりにインスピレーションを得た新七は、そのことを三代目歌川豊国へ話しました。豊国は
その光景を錦絵にし、さらに新七がそれをもとに書き上げた芝居が、『白浪五人男』(青砥稿花紅彩画)。新七が選んだ主役の
名は「弁天小僧菊之助」! ヒーローはもちろん数え17歳の羽左衛門(五代目尾上菊五郎)。この年3月に市村座で初演され
た歌舞伎は大当たりとなり、弁天小僧菊之助は彼生涯の当たり役となりました。弁天小僧で大評判をとった翌年、文久3年( 1
863) に、羽左衛門はまず弟を十四代目市村羽左衛門として市村座座元を譲り、自らは八代目市村家橘を襲名。そして5年
後の慶應4年(1868) 8月、家橘は市村座で五代目尾上菊五郎を襲名しました。若干20代前半とはいえ大偉業、満を持
した菊五郎襲名でした。以後菊五郎は時代物、世話物、所作事などで劇壇の頂点を極めてゆきました。市川團十郎、左團次
とともに歌舞伎役者の地位向上に努めて行きました。
■音羽屋 五代目尾上菊五郎(おとわや ごだいめ おのえ きくごろう)
天保15年6月4日(1844年7月18日) - 明治36年(1903年2月18日)
十二代目市村羽左衛門の次男で、三代目尾上菊五郎の孫にあたる。
嘉永二年(1849)二代目市村九郎右衛門を襲名して初舞台。
正月幼くして市村座の座元を継いで十三代目羽左衛門。
文久三年(1863)弟に座元を譲って四代目市村家橘。
明治元年(1868)母方の名跡の五代目尾上菊五郎を襲名。
九代目市川團十郎、初代市川左團次とともに、
いわゆる「團菊左時代」の黄金時代を築いた。
元禄に隆盛を極めた歌舞伎の世界はその時代の終わりに人気が低迷。ストーリー性のある人形浄瑠璃にとって変わられ長く雌 伏の時間を過ごしました。ところが時代は幕末前後。文化の中心は完全に上方から江戸に以降、パリ・ベルサイユにも似た退 廃的なムードにのって新しい歌舞伎の物語が登場しました。そのなかで脚光を浴びたのが「白浪五人男」だったのです。「弁天 小僧菊之助」によってスポットライトを浴びたこの江の島へ、多くの江戸歌舞伎役者がお参りに来るようになりました。
幕末から明治初期にかけて活躍した歌舞伎役者「三代目中村仲蔵」が、自叙伝『手前味噌』で
名代の江の島煮、さしみに生作り、
魚類づくめの馳走に皆々大喜び、
心地よく酒宴して、
絹布の夜具布団で広い座敷に寝る。
と書いています。これは天保9年(1838)に大坂から江戸への帰り、江の島に立ち寄って岩本院に宿泊した際の日記です。
江の島煮は鮑(アワビ)の肝を叩き、よくなめして、薄く削ぎ切りして煮た鮑の鍋へ入れた料理。新鮮な磯の香りの香るご馳走。
江戸当時、こういった料理はなかなかお目にかからなかったことでしょう。三代目中村仲蔵も皆々も大喜び。この頃の江の島は
アワビが特産品。
岩本院・ローマ風呂は明治になってから作ったので、この当時はなかったと思いますが温泉はあったのかもしれません。心ゆく
まで羽根を伸ばされたのでしょう。他にもハバノリ・モズク・ヒジキ・ミルなどが江の島の名産品でした。
■三代目中村仲蔵(1809-1886)
幕末から明治初期にかけて活躍。明治以後は長老として重きをなし、九代目市川團十郎や五代目尾上菊五郎と舞台を共にする。
七代市川團十郎から衣紋をきちんとたたんで心がけが良いと褒められた逸話があり、「鰐口」とあだ名されるほどの大きな口で
容貌には恵まれなかったが、敵役、老役、所作事に優れ、門閥外から幹部俳優に這い上がった人物である。当たり役は『仮
名手本忠臣蔵』など。
当然のことながらマルチメディアなどがない当時は、その娯楽の対象が歌舞伎に集中 していました。スター役者の衣装や小道具、普段の生活で使うモノ・色・柄などを庶 民は上手に取り入れて生活を楽しんでいたようです。現代の若者が、お気に入りのア イドルやアーティストがオススメするファッションやショップに常に目を向けていたのと 一緒です。ですから当時の歌舞伎役者達の宣伝効果というものは絶大。そのなかで 浮世絵は、いまで云うファッションタブロイド紙のような役割を果たしていたようです。 そこで江の島や箱根などでは歌舞伎役者を起用した「観光ポスター」が起用されま した。くわえて小道具としての商品を登場させる。いわゆるスポンサーとのタイアップ が行われていたのです。歌舞伎役者としての本職のほかに副業で色々と化粧品を売り だすなど、『油見世』というタレントショップも展開していました。トレンディな江戸文 化のそのまたさらにトレンディなカルチャーの中心地が、なんと精進落としなどをする 歓楽街にある遊郭。さまざまなファッション・流行がここから発信されていったのです。